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日本習字の創立者・原田観峰が問い続けた、「書くこと」の価値 

原田観峰

2026年に創立73年を迎える日本習字。その創立者・原田観峰は、戦後、前衛書道がもてはやされる中で、「正しい文字・美しい文字」を掲げ、書道教育の普及に人生を捧げた。一方で、世界各国へ赴き、書道を広げる活動の傍ら、世界各地の文化や文字に関心を寄せるなど、数々の逸話を持つ“型破り”な存在でもあった。

なぜ彼は、「書くこと」にそこまでこだわったのか。現在、理事長を務める葛西孝章と、その実弟で常務理事の葛西良昭に、祖父であり日本習字の創立者でもある原田観峰の軌跡を聞きながら、「書くこと」の価値の原点を問い直す。

取材・執筆・編集:丸田武史 撮影:中村健太

原田観峰、型破りな生い立ちと、書への原点

──まずはじめに、日本習字の創立者・原田観峰とはどんな人物だったのか、全くご存知でない方にもわかりやすいように、ご紹介いただけますか。

葛西孝章・理事長(以下、孝章):私たちの祖父である原田観峰は、1911年(明治44年)、現在の福岡県のみやま市に生まれました。実家はお酒の樽をつくる酒樽屋だったんです。小さい頃から通信教育のような形で書道に親しんでいたそうで。その後、旧制中学、今でいう高校に合格したんですが、家の経済的な事情で進学できなくなってしまった。それで博多の叔母のところに預けられることになりました。そこで、「もっと勉強しなきゃダメだ」と諭してくれたそうです。

──教育に熱心な家系でもあったんですね。

孝章それで夜間中学に通いながら九州大学の講義にもぐりこんで聴講したりしながら過ごし、代用教員という当時の制度で教員資格を取って、17歳くらいの時(1928年頃)に東京に移り、小学校の先生をしていました。

──17歳で小学校の先生、というのは今では想像もできませんね。

孝章そうですよね。その後も様々な職を転々としながら、東京で書の修行もして、戦争に行って、福岡に帰ってきてから保育園や幼稚園を作った。当時はベビーブームもあって、5つくらいの園を持つようになったんですが、42歳の時にそれを全部譲って、書道の世界に入ることを決めたわけです。

──それが1953年の習字団体の設立につながるんですね。

孝章:はい。それで1953年に、今の日本習字の前身となる西日本書道通信学会を設立しました。それが今の公益財団法人日本習字教育財団につながっています。

──42歳で安定した事業を手放して書道の道へ。なぜそこまで書道にこだわったんでしょう?

孝章:小さい頃から書道をずっとやってきたということもありますし、東京に出てからは当時の有名な書道の先生にもついていたそうです。展覧会に出して入選したこともあったと聞いています。もともと観峰先生は、楷書の小さな字が得意で、とにかく書が好きだった。幼稚園をやめて書の道に踏み出す時にも、どうなるかはわからないけれど、やっぱり子どもたちに「正しい文字・美しい文字」を学ばせたいという思いがあったんでしょうね。

戦後、前衛書道ブームのなかで、原田観峰が守ろうとしたもの

──1953年に団体を立ち上げた当時、書道の世界はどんな状況にあったんでしょうか。

孝章:戦後は前衛書道というものがすごく流行っていました。いわゆるきれいな文字を書く、というよりは、自己顕現(けんげん)を大切にする前衛的な書風、簡単に読むことのできない抽象的な書の世界です。戦争に負けて日本の価値観が全部変わった時代に、そういう表現がスポットライトを浴び、前衛書家たちは人気もあった。

──いわゆる「正しい文字・美しい文字」を掲げる観峰先生は、その流れとは逆の方向を選んだわけですね。

孝章:その通りです。「それじゃいかん」と。ちゃんと書の基礎をやっている人が前衛書をやること自体は、そこまで目くじらを立てなかったかもしれない。でも、何も基礎ができていない人がワーッと前衛に飛びついてやっているから、「これじゃ日本の書はおかしくなる」と思ったんでしょうね。だから観峰先生は、読める文字をベースにした正しい文字を教育として広めることを選んだ。日本習字の手本は、真面目な字、いわゆる読める文字を第一に教育してきたということです。

──そもそも当時、学校教育のなかに書道はあったんですか?

孝章:授業の選択としてはあったんですが、GHQの占領下で、習字(毛筆)は必修ではなくなったんです。

──戦後のGHQによる教育改革の影響もあって、当時の教育のあり方などが見直された時代だったと。

葛西良昭・常務理事(以下、良昭):日本語をローマ字表記にしようという話まで出たくらいですからね、当時の日本では。

孝章:文字をおろそかにするということは、文化を失っていくことにつながりますから。そういうことを危惧していたんだと思います。子どものため、将来のため、日本のため、という想いがあったんだと思います。直接そういう言葉を聞いたことはないんですが。

良昭:だから残っている当時のものを見ると、いわゆる愛国心が強い人だったんだなというのは伝わってきますね。時代が時代ですから。戦争にも行っていたわけですし。

孫が見た祖父・原田観峰という存在

──では、お二人にとって、観峰先生はどんな存在でしたか? 個人的なエピソードも含めて教えていただけますか。

良昭:私は日本習字に入社して半年くらいで、観峰先生が亡くなっているので、仕事を一緒にしたという記憶はほとんどないです。どちらかというと、小さい頃から成人するまでの思い出の方が多い。まず、周りの人たちがみんな怖がっていたんですよ(笑)。

──怖がる、というのはどういう感じで?

良昭:髭も立派だし、みんながかしこまっている感じというか。王様みたいな雰囲気でしたね。ちょっとでも機嫌が悪いと周りがピリピリして。で、よくあったのが、機嫌が悪い時にスタッフから僕ら孫が呼ばれるんですよ。「たかちゃん(孝章)、よっちゃん(良昭)、おいで」って。

孝章:「ちょっとちょっと来んね」って呼ばれて、ノコノコ行くんですよ。僕らは、お小遣いをもらえるから行くんですけど(笑)。スタッフたちが孫を使って観峰先生の機嫌をとらせていたんでしょうね。

──厳しさと優しさ、両方を持った方だったんですね。

良昭:もちろん、事業家として厳しい側面もあったと思います。ただ周りに人がいない時は本当に優しかったですよ。冗談を言い合えるような感じではなかったけれど。でも、私の思い出としては、いつも書を書いていました。毎日、亡くなるまでずっと書き続けていた。そんな祖父でしたね。

──そんな観峰先生ですが、書道の教育者としては、どんな特徴があったんでしょうか。

良昭:研修施設なんかで話している内容を思い返しても、書き方の話はあんまりしてなかったんですよね。子どもたちが来ても、「ここをこう書く」とか、そういう技能的な話はほとんど聞いたことがない。技術的なことは「見て覚えろ」という感じでした。

──いわゆるHow to的な教え方はしなかったと。

孝章:技能を高めることだけが目的ではなかったんでしょうね。もちろん結果として上達することは大事なんですけど、それよりも「正しい文字」や「美しい文字」を広めることの方が大事だった。How to的に「こうすれば早くきれいに書ける」という教え方は、あまりしなかったんだと思います。だから他の書家の先生たちとは、少し違ったんでしょうね。観峰先生は、単なる書家というより教育者だった。書道教育を広める伝道師(エバンジェリスト)みたいな存在だったんじゃないかなと思います。

“クレイジー観峰”と、世界へのまなざし

──書道教育の普及にとどまらず、観峰先生には、文化そのものを広く伝えようとする側面もあったように思います。世界各地で書を通した交流と指導をされていた、とも資料で拝見しました。

孝章:はい。観峰先生は、先ほどもお伝えしましたが、単なる書家、というより教育者の側面が大きい存在でした。「日本の書道を世界へ届けたい」という強い想いをその足跡から感じています。中国や欧米を飛び回り、指導だけでなく、現地の文化人の方々や子どもたちとの文化交流活動にも力を入れていたようです。

良昭:特に1960年代~80年代にかけては、中国へ頻繁に赴き、交流を重ねていました。観峰先生が大切にしてきた、書の古典がある中国での文化交流は、書家としてのあこがれもあったのだと思います。そして「友好交流」として、観峰先生自身だけでなく、子どもたちと同行した交流もあった。他にも、アメリカのニューヨークや、ワシントン、マレーシアやシンガポールなど、世界各地の大学や講演会場などで作品を書く姿を現地の人々へ見せたり、体験学習会もおこなったりしていました。

──当時の日本人、しかも一書家、教育者が世界各地で指導をするというのは、相当思い切った判断ですよね。観峰先生が世界へと目を向けられた1960年代といえば、まだ今ほど海外が身近ではなかった時代ですし、その行動力には驚かされます。

孝章:当時の状況を考えると、信じられないですよね。それだけ、文化交流への思いが強かったということだと今では感じています。例えば沖縄返還(1972年)前に、沖縄とのやり取りが国際郵便扱いで高額だった時代にも、費用負担を承知で沖縄の生徒への書道の通信教育を続けていたところにも、その姿勢が表れているというか。そんな自分の一面を「クレイジー観峰」とよく言っていました。そうじゃなきゃ、こんなに世界を駆けまわってまで、日本の書道を広めようなんてことはできないだろう、と。

──観峰先生は「書道を広める」ということを超えた何かをずっと見ていたようにも感じます。「書道家として日本の正しい・美しい文字を広く世界の人々に伝えることが目的だが、この活動をもっと広く、大きな目で捉えている。世界中の民族、国家という枠を超えて、人々が理解し合うことが目的だ」といった言葉も拝見しました。

良昭:それは本当に思っていたと思いますね。いろんな民族に好奇心があって、行ってみたい、分かり合いたい、理解し合うことが大事だという思いがあったんじゃないかと。

孝章:それから、世界各地を飛び回る中で、資料や美術品を収集していましたね。でもそれは、自分のものというよりも、みんなに見せたい、子どもたちに触れさせたいという想いが強かったんだと思います。日本の子どもたちに世界の文化を知ってもらうことも、世界各地での文化交流の目的のひとつだったのでしょうね。それが今の博物館「観峰館」(滋賀県東近江市)の収蔵品につながっているんです。

「書くこと」の意味を、現代に問い直す

──観峰先生が亡くなられた1995年は、ちょうどWindows95が登場した年でもあります。その後、「打つ」ことが「書く」ことを追い越していった時代のなかでも、書道教室という場所自体は残り続けていますよね。

良昭:結局、書道教室って、「正しく、美しい文字」を教えるだけの場所ではなかったんだと思うんです。そこには、書道をすることで気持ちが整うことだったり、何かに没頭できる時間だったり、そういうものがあった。観峰先生も、きっとそこを大事にしていたんじゃないかなと。だから時代は変わっても、技術を教えるだけというより、子どもの成長を見守るという価値は変わらない。結果だけを求められがちな、学習塾とは少し違う関係性というか。それはずっと変わらない気がします。

──もし観峰先生が今、このプロジェクト「Relight the Write 書く、ということ。」を見たら、どんな反応をすると思いますか?

良昭:観峰先生がいた時代と、今とでは、もちろん違う部分もあると思いますが、どんな時代でも「このままじゃいかんぞ」という危機感は、ずっと持っていた人だったんじゃないかなと。書かなくても済む時代になっていく中で、「書く」という行為に、綺麗な文字を書く以上の意味を見出そうとしていた気がするんです。だから、このプロジェクト自体も、きっと否定はしなかったんじゃないかなと思います。

孝章:私は「もっとやれ」と言われる気がしますね。今の時代の書道パフォーマンスとか、いろんな新しい書の表現を見たら、「今ではそんなことするか」ってふっと笑いながら、でも受け入れてくれたと思う。観峰先生って、時代の変化に対して「このままじゃいかん」と思ったら、自分で動く人だったので。

──今、お二人の中に一番残っている観峰先生の言葉や考え方って、どんなものですか?

孝章:「文字をおろそかにするということは、文化を捨てることじゃないか」ということ。結局、そこに行き着くんですよね。文字は、読み・書きの中心として単なる「ツール」としてあるだけでなく、そこに暮らす人々の精神性に深く根差したものであったはず。方言だって、その土地の歴史とかあたたかみを感じますよね。同じように、文字そのものも、グローバル化が進む現代社会の中で、文化継承として重要な要素の一つであると。日本語という、漢字もかなも混じった豊かな文字文化を守っていくことは、未来の子どもたちの為にも、やっていかないといけないと思っています。観峰先生が直接そういうことを言っていたわけではないけれど、残ってきた言葉の奥に、そういう想いがあるんじゃないかなぁと。

良昭:観峰先生は、書道の先生方を主人公にしていたと思うんですよ。書道教室の先生方一人一人が主人公で、その先生方あってこそ子どもたちの習字教室が成り立つ、という。そういうリーダーシップ、人を育てて導いていくことは、自分にはまだまだできていないなと感じるし、そこはいつも観峰先生のことを思い出す部分です。

──今あらためて「書くこと」や「教育」そのものが、問い直されているタイミングなのかもしれませんね。

孝章:お習字って、江戸時代の寺子屋の頃から、ずっと庶民の生活の中にあった文化なんです。何百年も続いてきたものが、ここ20〜30年の変化だけで、本当になくなるのかといったら、観峰先生はきっと「それは違うだろう」と言う気がします。文字を読んだり、書いたりすることって、人間の根源的な営みの一つだと感じるので。だから今の時代を見たら、「お前たちの努力が足りん」と怒られるかもしれない。でも、観峰先生が残した言葉を辿っていくと、結局ずっと一貫しているのは、「文化を大切にすること」。そして子どもたちが大切だっていう想いは変わらないと思うんです。だからこそ、それを引き継いで実践していきたいですね。

※肩書は取材時(2026年5月1日)時点のものです。

プロフィール

原田観峰

1911年(明治44年)3月21日、福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)生まれ。書道教育家。1953年、書道団体・西日本書道通信学会(現・公益財団法人日本習字教育財団)を創立。書道教育の普及・書道文化の伝承に生涯をかけ、国内での書道教育のみならず、中国や欧米、東アジア等世界各地へ赴き、日本の書道を紹介した。また、文化資料の収集・保存にも力を注ぎ、その膨大な資料は博物館「観峰館」(滋賀県東近江市)に収蔵され、一般に広く公開されている。1995年(平成7年)、84歳で逝去。

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